「つぶやく者への神の愛」  02−08−11
                マラキ3:19〜24、マタイ3:11〜12

 イスラエルの民が神さまから愛されてきたことは、旧約聖書で繰り返し
描かれてきたことであり、明らかなことでした。
 ところが、イスラエルの民は言います。「どのように愛してくださったのですか」と。
神さまに愛されていることが分からないことによって、どんどん神さまとの関係も
崩れていきます。神を軽んじ、つぶやきを言い、開き直る生活に彼らは陥って
いました。 それは悲惨な姿です。神さまの愛を知って、喜びと信頼の中で生きる
ことから、遠のいているからです。

 イスラエルの姿は、反抗期の子供のようです。親から深く愛されているのに、
親を拒み、無視して生きようとし、その結果大きな失敗をしでかしてしまう。
そして、その失敗の中で、うめき苦しむのです。しかし、反抗期が誰にでも
あるように、神の愛を見失った悲惨さは、私たちにも起こりうることです。
それによって、つぶやきや開き直りが蔓延し、喜びが見えない生き方をしている
ことがあります。

 神は、神の愛が分からないと言って反抗する民に、神の愛が分かり、
神との関係を回復できるための、エリヤを遣わすとおっしゃいました。
主イエスは、洗礼者ヨハネのことを、そのエリヤだとおっしゃいました(マタイ11:14)。
 このエリヤがしたことは、主イエスを指し示すことでありました。
 つまり、神の愛が分からないと言う者に対して、主イエスを指し示すヨハネを
与えてくださったのです。主イエスを見つめる時に神の愛を知らされるからです。

 <神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが
(罪を赦され神の愛を知って)生きるようになるためです。
…神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子を
お遣わしになりました。ここに愛があります。>(ヨハネの手紙T 4:9〜10)

「ここに愛がある!」といわれる主イエスのお姿をしっかり見つめていたいのです。
それによって、自分が愛されていることを知り、それを喜び、力を与えられて、
生きるのです。